昭和四十八年八月二十七日 朝の御神訓
御神訓
一.真の道をゆく人は肉眼をおいて心眼を開けよ。
どうしても、心の眼を開きませんと、いわゆる難儀が絶えません、心の眼を開きますと、難儀と思うて居った事が、おかげ、難儀と思うて居った事は神愛と判る、そこにお礼の云えない様な事にでも、お礼が云えれる様な心、その心におかげが頂けるのです、ですからどうしても心の眼が開かなければいけないでしょう。
私は、今日、真の道を行く人は、と云うて居られるところを、強く感じるのですけれども、今はそう云う方達はおらんかも知れませんけれども、昔は、お百姓さんが朝、私どもが起きる頃には、朝、草を刈ってそして帰えられる、そして、朝食をされる、これはもう、何処の、農家でも、それをいろいろ肥料やら、玉草やらにされるのでしょう、私は、自分でやった事がないので判らんけれども、とにかく、あの気持ち良さそうなんです、サクサクともう朝露が一杯それこそ濡れる様な朝露の中に入って、そして刈る鎌ですが、で草を剪られる、もうそれは朝露のついている草を木刀で担うて帰っておられる、それを見ただけでも、こちらが元気が出る様な、目が覚める様な感じですから、それを実際に、日々行っておる人の場合なんかは、そうだろうと思う、今頃はそんな、朝、草なんて刈らんでしょうけれどね、今はそんな事はせんでしょう。(する人もあります)
私は、農家の方達が朝、草を刈りに行く様な、心持ち、そう云うところからです、朝早起きの素晴らしい事、または、朝食、朝飯の旨い事、そして、これでいきゃあ、病気知らずと自分ででも、感じないまでも、健康を約束される様な、おかげと云うか、私は真の道を行く人と云うのは、そう云う行き方を身につけねば駄目だと思うですね。
朝、早起きが苦になる様では駄目です、それこそ、朝露を含んだ、それこそ、朝、草を刈って、それを朝食前に剪って帰られる、その私は、快感と云うのか、気分の良さと云うか、そして、自分にも気づかん間にです、朝起きは、昔から三文の徳とこう言われておる、朝起きをするだけでも、三文の徳が身に付くと云われる位、その徳が身についておる事を自分が気が付かないけれども、徳が付いておる。
その証拠には、御飯がお美味い、その証拠には病気など知らないというほどしのものが頂けておる、それを、それを私は知る事、判る事が、私、肉眼をおいて心眼を開く事だと思う。
どうでしょうか、朝参りをさせて頂いておるおかげで、朝起きの徳を受けておる、おかげで、帰っての朝御飯がお美味い、ところがそうではなしに、眠くて、眠くて、おかげは頂かんならんけんしようことなしに参りよる、と云う様な事ではです、もうそれこそ、もう帰ったらもう、一眠りせにゃ出来んごたる事では、私は、真の道を行っておるとは、私は、云えないと思う。
そして、その真の道を行く人の上に、約束されるところのおかげ、真の道を行く人に表れて来るおかげをです、知らなければいけない、朝、草刈りに行っとっても、本当に百姓ちゃこげん有り難か事は知らじゃったと云う様な、味わいを、味わう人は、あまり無かろうと思うですね。
けどそれを感じとる人は、もうそれは素晴らしい篤農だと思うです、本当に百姓しとるおかげで、朝早う起きて、朝、草を刈りて、そして、朝飯前に帰って来て、それから、朝飯を頂いて、それから又、昼の仕事に従事すると、もうこれだけでも百姓の有り難さ、百姓さして頂いとる、それこそ、妙賀て云う事をです、判らせて頂くという事が、私は、心の目を開いた人だと思うです。
朝参りでもさせて頂いておると云う事がです、今申しました様な、有り難いおかげにつながっておる、第一健康に、目には見えないけれども、朝起きは三文の徳と云うものを身につけていきおる、しかも、楽しうて、有り難うして、もう清々しい、朝、草を剪って帰る時の様な、云うなら、勇ましいまでの生き生きとした、清々しさと云うものがです。
しかもそれが、おかげで健康が約束されておるのだ、朝飯がお美味いんだと云う事なんです、その事を私は判ると云う事が、心の眼を開く事だと思う、だからそれが楽しうて楽しうて、こたえん事になって来るのです、朝、早起きが、じゅつのうしてこたえんと云う金光様の先生やら、信者であっては、それじゃおかげ頂ける筈は無いですね。
もう朝は睡うしてこたえんと云う事では、ばってんやっぱり起きんならん、と云った様な事ではね、私はね、いわゆる、いつまでたっても、それこそ、寝ぼけ眼でありまして、眼が覚める様な心の眼を開く事は出来んて、心の眼を開くという事は、そう云う朝飯前の一仕事がです、もうじゅつないものではない、しるしいものではない、得難いものにならなければ、です、心の眼は開けんです。
心の眼を開いたら、どう云う事になるかと云うと、あれもおかげである、これもおかげであると云う事がはっきり見えて来るのです、困った事じゃあると肉眼では思いよった事がです、心の眼を開かせて頂いたら、もうそれは本当に有り難い、その難儀が大きければ大きい程、おかげも又大きいと云われるのはです、それは、大きなおかげを下さろうとする働きなのですから、難儀じゃないです、神愛です、大きな神愛ですから。
真の道を行く人は、という事は、私は、なら金光様の信心しとっても、なら真の道は、日々、云うならば朝飯前の、朝、草刈りの味わいを知らない人は、真の道を行っていないと云っても過言ではないです。
なら、朝参りしよるけれども、なら、それを、しようことなしのものであったら、それは、決して健康につながったり、おかげにつながったりと云う事にならない、清々しい、それこそ、朝露を含んだ、それこそ、朝、草を剪る、その快感と云うか、私も実際は知らんのですけれども、けれども、私ども、子供時分の頃、いつも見ておってです、兎に角、朝、草を刈るというその事自体が、サクサクサクサク剪れていっておる時の、あれは昼では、剪れないんだそうですね、朝露がある時でなければ。
昨日、土居の久富さんが、本当に私どもがこうやっていつまでも、おかげ頂きらずに居りますから、人からいろいろと云われちゃならん、人から云われたり、まあ私の事をと思えば、有り難いけれども、人から云われる、本当におかげを頂かなければ、と云うてご祈念されておったら、天地草朝と頂いたそうです。
天地が開けるのは、もう草朝からなんです、朝草、あさくさと書いてある、字ではっきりと、天地が覚める様な、眼が覚める様なおかげを頂くとね、それこそ、朝、草を剪る時の様な心持ちがなからなければ、天地の開ける音も聞こえてこないし、心の眼から、肉眼から、心の眼を開かせて貰う事は出来んのです。
だから、そこでです、なら、朝、草剪りにでも行くというなら、決して晩に夜更しなんかしないでしょう、もう夕食を頂いて、御飯でも頂いた、御祈念でも頂いたら、もう、ゴロット早う寝ろうごとしてこたえんじゃろうと思うです、そう云う道です、真の道と云うのは。
私は、朝起きる時にしるしいとか。まあ夜更しして、深夜劇場を見とったけん眠いとか、それにこだわって云うのじゃないですよ、そう云う気分の事を云っているのです、私はね、朝、草を剪る時の様な気分を1日のうちに何処かに、なら、夜業なら夜業をする人は、人が寝とる時に仕事しとります、やっぱり昼寝なきゃなりません、それでもいいのですよ、問題は私は、その気分を云っているのです。 昨日、八女の石橋さんお礼に出て見えました、あのお医者さんの奥さん、丁度もう2ケ月にもなりましょうか、長崎の方から見えとるそうですが、郷里の両親が、難病、奇病の2人、1人はもう難病、1人はもうそれこそ、病気の名も付けられんほどしの奇病、先生、おかげちゃ、こげなもんでしょうかと、昨日、只、御神米を送ってやって、家の主人が、あぁ云う奇病、大変な奇病でしたね、ご主人が、先生が、それがおかげを頂いて、その事で御神縁を頂いて、家庭の方も、お母さんと、姑の義理の中ですから、旨く行かなかったのが行く様になり、主人はおかげで忘れた様におかげ頂いて、仕事さして頂いておる、それで、貴方方の事をお願いしたから、どうぞ金光様金光様と、唱えて下さい、こっちから拝むから、と、御神米を二体送ってやった。
ところが、先日から便りがありましてね、難病、奇病が、おかげ頂いたと云う便りが来た、今日は、その為に態々参拝させて頂いたと、だから、これは、金光様の働きじゃあるじゃろうかと疑うほどしだったと、けれど家の主人が、あんなおかげ頂いとるのじゃから、やっぱりおかげを頂いとる。
今日私は、御神前で、もう20年も前に、お参りをして来ておった方で今は何処に居られるか、知りもしませんけれども、その人の事を頂いて、その事がこう頂くのですね、おかげのかげを受けておる氏子の事も、お願い申し上げ様、又、お礼も申し上げ様と頂いた、だから、信心は出来ていなくても、おかげは下さる、そのおかげに又かげが、例えば、ここに黒い影が映っとると、その黒い影に又影が映るでしょう、影の影と云うのがあるでしょう、もう合楽に御神縁を頂いた限りの人はもう、全部おかげを頂きよるです。
私は、改めてその事を感じた、もう合楽には20年も参らん人でもです、一辺合楽に、その当時椛目に御神縁を頂き、私のお取次ぎを頂いたほどの人ならばです、もう金光様と云う事を忘れとっても、影の影が現れておるのですから、私は、昨日、その石橋さんにも、申しました事ですけれどもね、あの長崎の御両親の、その難病奇病がおかげを受けた事もです。
それはあんたが、手紙で聞いて、これは魂消たと思うとるけれども、それは本当、氷山の一角よと、私は申しました、手紙でお礼を云うて来たのは、只、ほんに氷山の一角、あぁ不思議、まだ半信半疑、まだ本当に金光様のおかげじゃらうかと思うくらい、だから、まだ目に見えないところに、とても、長崎の遠いところまで、神様が行って下さる訳ではないでしょうけれども、只、一辺お願いをしただけ、只、御神米を送っただけ、只、金光様を称えなさいと云うただけの事、それで、それを境に、おかげを頂いておるという事は、それは本当に氷山の一角、眼に見えないおかげがまだどれだけ有るか判らんところに、今日は、今朝頂いた様な感じです。
合楽の今の御信者さんは勿論の事、もう20年も前におかげを頂いた、本当に特別のおかげを頂いた方が沢山ある、無い命を助けて貰うた、開けん道が開けた、そして、ご恩な忘れません、ご恩な忘れませんで、いつの間にか、お礼参拝もできん様になっておる人達の上にもです、そういうおかげを一辺頂いとるのですから、そのおかげに又、影が伴うと仰有る、信心のおかげでなくて、只、おかげだけにでも、影の影が伴うておる。
その事のお礼を申し上げて、又その氏子達の事も願えと云うお知らせを頂いた、こう云う事でも心の眼を開かなければ判る事じゃないです、困った事とか、難儀な事とかはもう心の眼がつぶれてしもうて、肉眼だけで見ておるから困った事だ、難儀な事だと云っておるのだと、悟らせて頂いて、これは愈々肉眼をおいて、心眼を開かねばいけんぞ、只、真の道を行く人は、と仰有るのだから、朝参りでも例えばさして貰うている人はです、例えば朝参りが、農家の方達が、それこそ、生き生きとした弾んだ心で、朝、草を刈ってこられる、朝食前にそれを済まされる。
その気分の爽快さと云うものをお互いは果たして感じておるかどうかという事なんだ、お参りして、お願いをせんならんけん、これば、お伺いせんならんから、お参りするというものじゃなくてです、そこで私は、まず肉眼から、心眼を開き初めがです、こうして、朝早起きの事が有り難い、朝飯がお美味いという事がありがたい、朝起きのおかげ、眼には見えないけれども、朝起きは三文の徳と云う事が身につきよる事が有り難い。
おかげで病気知らず、健康を約束されておる事は、朝、草刈りのおかげだと判らせて頂くと云う事がです、朝参りさせて頂いておる事の利益と云うか、おかげというものを判らせて頂いた事になります。
それが先ず心の眼が開き初めであります、そこから、私ども、日常生活の上に、信心をもってのおかげを頂いて行くうちにです、段々実際問題に取り組んでいくうちに、あぁ本当にあれは困った事じゃなかった、あれはおかげであったと後から判る様になり、それが後からではない、即その場で御神意に違いない、御神慮に違いない、もう神愛に間違いは無いと云う、頂き方が出来る時こそです、肉眼を於いて心眼を開いた時とこう思うです。
真の道を行く人は、肉眼をおいて心眼を開け。
一つ朝参りがね、朝、草刈りの爽快な気分だろうと思うんですよ、実際した事がないから、そばから見とっても、そういう気分に見えるくらいですから、皆さんが朝参りして帰られる、ほんに信心しようもんばっかりはもう馬鹿んごとある、と云われる様な見方じゃ出来んです、それこそ、いそいそとして参り、いそいそとして帰って、ほんに朝参りちゃあげなもんじゃろうかと、もう信心の無い者に思わせ、判らせる位のね、いそいそとしたものがなからなければならんと思うね。 どうぞ。